New_1_1 New_2_1 New_3_1 New_4_1 New_5_1 アトリエサードロゴ' アトリエサードロゴ New_8_1 New_9_1 New_10_1 New_11_1 New_12_1
New_1_2 TOP 既刊 購入方法 取扱書店 評判録 PROFILE 芳名帳 BBS blog a-third.com-shop New_12_2

ストルガツキー兄弟ってどんな人?



●出生
 アルカージイ・ストルガツキーは1925年、グルジアのバツーミで生まれる。弟のボリスは、1934年レニングラード生まれ。父親はナタン・ストルガツキー。ユダヤ人。ボルシェビキに入党し、ウクライナで党の役員も務めた。1942年、レニングラードの公共図書館の職員であり義勇軍の中隊長であった彼は、侵攻してきたドイツ軍から逃れるためにアルカージイとともにレニングラードからの脱出を図るが、その途中で命を落とす。母親のアレクサンドラは家畜卸商の娘。ロシア共和国功労教師と〈栄誉勲章〉の受領者の称号を受け、1983、4年頃に他界している。
 

 

 

 

 

 




●ビキニの灰
 父親を亡くしながらもレニングラードを脱出し、ドイツ軍から逃れたアルカージイは、軍に召集され、陸軍外国語大学東洋学部日本語科の聴講生となる。卒業後、1955年に除隊するまで、極東で勤務。アメリカによるビキニ環礁の水爆実験(1954年)で日本の漁船〈福龍丸〉が被爆した事件を追っていくうちに、同僚のレフ・ペトロフとともにこの事件を小説化することを決心し、《ビキニの灰》を書き上げる。出版されたのは1958年だった。
 

 

 

 

 

 

 




●処女作
 ストルガツキー兄弟は、子どもの頃からSFに熱中していたという。「ジュール・ベルヌ、H・G・ウェルズ、カレル・チャペック、アレクセイ・トルストイ、アレクサンドル・ベリャーエフなど、私たちは彼らの空想的な作品を、文字どおりむさぼるように読んでいました」(アルカージイ)。SFについていろいろ議論しているうちに、「けなすのは簡単だよ。でも、ひとつ自分で書いてみたらどうなんだ!」という友人の言葉に乗せられて処女長編となる《紫雲の国》(未訳)を書き上げた……らしい。それはロシア教育省主催のコンテストに入賞し、1959年、「児童文学出版社」から出版された。
 しかし、デビューはその1年前に果たしており、処女作は、《外から》という短篇。雑誌「技術青年(テーフニカ・マラジョージ)」の1958年1月号に掲載されている。
 

 

 

 

 




●三つの理由
 作家として順調な滑り出しのできた理由を、アルカージイは次の3つの状況に帰している。
1、全世界的、歴史的事件――すなわち、1957年の最初の人工衛星の打ち上げ。
2、文学的な事件。すなわち、同じ1957年にイワン・エフレーモフのすばらしい共産主義的ユートピア小説『アンドロメダ星雲』が世に出たこと。
3、出版界に関すること。つまり、「若き親衛隊」や「児童文学出版社」に、ソビエトSFを復活させ、世界的水準にまで引き上げたいと心から願っている進歩的な編集者がいたこと。
 しかし、順調に作品を発表できる日々は、そう長くはなかった。早くも60年代には彼らに対する弾圧が始まるからである。
 

 

 

 

 




●発禁処分
『そろそろ登れカタツムリ』が最初に発表されたのは1966年。この小説は〈カンジート〉が主人公の部分と〈ペーレツ〉が主人公の部分から成り立っているが、その〈カンジート編〉がその年にレニングラードで出版されたアンソロジーに収録された。これは特に問題がなかったが、その2年後、中央シベリアの文芸誌に〈ペーレツ編〉が発表されると、この作品を掲載したという理由で、多くの編集スタッフが首を切られ、掲載号は発禁処分になった。なぜ〈ペーレツ編〉だけが目を付けられたのかは定かではないようだが、この作品がひとつにまとまるのには、ペレストロイカが進んだ1988年を待たなくてはならなかった。
 

 

 

 

 

 




●発禁処分2
『カタツムリ』の2年後、1968年に発表された『トロイカ物語』も発禁処分に会った。これは『月曜日は土曜日に始まる』の続編なのだが、1987年にまったく同じタイトルでところどころ内容の異なる作品が発表されている。しかしそれは、単なる書き直しではなかった……というのは、その2年後、1989年に68年に書かれたものがそのまま再版されているからだ。その辺りの詳細な事情は不明だが、邦訳は二つのヴァージョンを併載しているので、読み較べてみるのもいいだろう。
 

 

 

 

 

 




●国家と作家との関係
「確かに、わが国とわが国の文学との歴史には困難な時期がありました。しかし、私たちは文学にたずさわっているこの25年間、自分たちの知性と心が教えることを書いています。私たちは何をどう書けといって指図されたことは一度もありませんでしたし、今もありません。私たちを「ソヴェート体制」の批判者として、国内亡命者、異端者として描くことは、ナンセンスの極みです」(アルカージイ、1983年の『ソヴェート文学』のインタビューにて)。
「西側には、社会主義はもちろん西欧民主主義までを無神論的として激しく否定するソルジェニツィンの如き極右から、メドヴェージェフ兄弟やストルガツキー兄弟のようなリベラルな共産主義者までを、十把一からげにして「ソ連反体制派」などと、乱暴に分類する傾向があるが、これは分類された本人たちが一番迷惑することに違いない。今はなきエフレーモフも、ストルガツキー兄弟も、スターリン主義には激しく反対しても、社会主義体制それ自体に反対したことなど、かつて一度もない。このところを見誤ると、大きな間違いを犯すことになる」(波津博明)。
「著作権を取り扱う公的機関が発禁書の国外での翻訳は認め、版権を売り渡しており、また、作家たちに発表の場を奪ったり制限を加えておきながら、その都度、それを撤回している。この混乱は、ソ連の文壇がこの作家たちをどう評価していいのか判断に迷っている現われだろう」(深見弾)。
 

 




●弾圧から雪解けへ
『みにくい白鳥』は、さらに不運な運命をたどっている。この作品が書かれたのは1966年から67年にかけてだが、国内で公の陽のもとに登場したのは、20年後の1987年だった。ちなみにこの作品は、1972年に西ドイツの出版社によって作者の了承なしに出版されているが、これは分量が半分程度の未完成原稿である。
このように、1966年から1970年にかけてストルガツキー兄弟は、かなり厳しい風当たりを受けている(66年はブレジネフが書記長になった年だが、何か関係があるのだろうか)。雑誌の書評からも批判が相次ぎ、ソ連政府機関紙「イズベスチヤ」66年5月25日号や有力文芸誌「十月」67年7月号、党理論誌「コムニスト」67年12号が立て続けに、ストルガツキー兄弟を始めとする〈哲学的〉SFを書く作家たちを取り上げて批判している。
 なお、こうした弾圧が解かれるようになるのは、ペレストロイカが始まった1985年以降のこと。作品としては『波が風を消す』が連載開始された時期である。
 

 

 

 




●日本文学と天文学
 アルカージイは、日本文学研究家としても知られている。先にも述べたように、軍で日本語を勉強したことがそのきっかけになっているようだ。専門は中世日本文学で、上田秋成の『雨月物語』や芥川龍之介の『河童』などの翻訳があるが、その一方、安部公房の『第四間氷期』の訳なども手懸けている。『第四間氷期』はベレシコフのペンネームで雑誌「次の世代(スメナー)」1965年1月号から6月号に翻訳し、これをきっかけにしてアルカージイはよりSFにより没頭していったという話もある。ちなみに、60年代後半から70年代前半にかけての時期というのは、ソ連が欧米に先駆けて日本SFを精力的に紹介していた頃でもあり、世界で初めての日本SFのアンソロジーが出版されたりしている。ちなみに『第四間氷期』が英訳されたのは、アルカージイの仕事の5年後、1970年のことであった。
 一方、ボリスは天文学者。レニングラード大学の理学部を卒業し、プルコフ天文台に勤め、二重矮星の誕生について研究していたらしい。
 

 

 

 




●共同作業
 アルカージイはモスクワに、ボリスはレニングラードに住む。600キロも離れたところにいるふたりがどのように共同作業を進めていったのか、だれもが不思議に思うところであるが、その真相はというと……。
「二人でやる仕事の最も効果的のある方法は、まさに二人で一緒に仕事をすることです。私たちはしょっちゅう会っていますからね。ひとりがタイプライターの前に座ると、もうひとりはその横に座る。どちらかがある表現を提案する。その表現をよく考え、批判し、直す。そして、磨かれ、なでつけられ、調和した表現にして、紙にタイプする……こんなふうにして毎朝仕事をするのです。夜には普通、翌日分のプランを詳細に検討しあい、次の作品の着想や主題についてよく考えてみるのです」(アルカージイ)。
「毎日下書きで5枚から7枚、清書にして10枚から15枚です。午前中5時間、それに夕方1、2時間。10日間ぶっ続けに(以前はもっと長く出来たのですが)何にも気を散らされることなく、休養日もとらずに書きます」(ボリス、1985年のインタビュー)。
そして、文学者であるアルカージイが主に文章を、天文学者であるボリスが主に科学的アイデアを任っているかというと、そうでもないらしい。
「幻想的な着想の大部分は私が提案したものです。そして作品の詩的なものは全てボリスのものですし、ユーモアの65パーセントもやはり弟のものです」(アルカージイ)。
 





●映像化
『世界終末十億年前』に掲載されているアルカージイによる自伝を読むと、次のようなことが書かれている。
「われわれのシナリオによって、4本の映画が撮られた。1本はひどい代物で、2本はまま我慢ができ、1本は世界的水準にある出来だ」。
 ストルガツキー兄弟の映像化作品としては、アンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』(79年)があまりにも有名である。しかし、そのために書いたシナリオ『願望機』はいわゆるボツとなり、『ストーカー』は、ストルガツキー兄弟の意図とは違った映像作品として仕上がった。その辺りのストルガツキー兄弟の心境には、複雑なものがあるようだ。
「これが、高度な国際級の作品であることはだれも疑っていない。だが、このことばを自賛ととってもらいたくない! 映画『ストーカー』の製作については、その主たる功績はタルコフスキーのものであって、われわれはただ彼の下働きをしたにすぎない」(アルカージイ)。
『ストーカー』以外の映画化作品としては、『ホテル〈遭難したアルピニスト〉』(グリゴゴーリイ・クロマーノフ監督、原作の訳題は『幽霊殺人』)や『スプーン五杯の霊薬』(B・イフチェンコ監督)、『こびと』(原作の訳題は『リットルマン』、チェコスロバキアで映画化)、『神様はつらい』(西独とソ連の共同製作)などがあるらしい。先のアルカージイの証言より1つ本数が多いが、『こびと』と『神様はつらい』は本当に完成しているのかよくわからない(前者は「撮影を開始」、後者は「交渉の段階」と深見氏が紹介しているが、その後どうなったかは残念ながら確認できていないのです)。
 他に、テレビ化作品として、《魅惑的な人たち》(どの作品に該当するかは不明)、『月曜日は土曜日に始まる』(1983年1月にミュージカル化、監督はK・ブロンベルグ)があるが、後者のものは、少なくともアルカージイはまったく気に入っていないらしい。
 これ以外にも、《雨雲》や、《蝕の日》(『世界終末十億年前』の映画シナリオ)といったシナリオ作品もあるので、これらも映像化されている可能性があるがどうなのだろう。また、ソ連版『ザ・デイ・アフター』として話題になったロプシャンスキー監督の『死者からの手紙』の脚本に、ボリスの名前が見えることも付け加えておこう。
 で、ついでなのだが、なんと『収容所惑星』のマンガ版というのもある。「スプートニク」誌1986年1月号から連載されていたらしい。
 




●成功作
 ストルガツキー兄弟は、自分たちの作品の中で、どれを最も成功した作品だと思っているのだろうか。1983年のインタビューなのでちょっと古いのだが、アルカージイは、こう答えている。
「文学的に成功したのは『そろそろ登れカタツムリ』、『火星人第二の来襲』、『神様はつらい』だと思います。作家として私たちが満足できる作品です」。
 

 

 

 

 

 




●SF観
「私はリアリスティックなSFの支持者です。ファンタスティックな要素は語りのリアルな筋を作り出す方向に展開されるべきであり、筋と溶け合って全く新しい特性を持ったなんらかの単一の「合金」(合金がそうであるように)を作り上げるべきです。
「SFの90パーセントは二流の読み物です。それは、作者がSF的(ファンタスティック)なものと現実的(リアルスティック)なものとの合金を作り上げることが出来ず、SFをリアルなものにすることが出来ないからです。
「ゴーゴリの『鼻』はファンタスティックなものが圧倒的ですがリアリズムに貫かれています。スウィフトが『ガリヴァー旅行記』で非常にたくさんの事物をはなはだしくリアルなディテールまで書き込んで、極端なまでの周到さを見せていますし、レムにも擬態生物(ミモイド)の形態について多くのページを費やして事細かに語るという周到さがあります。これらはすべて読者が作品のSF的世界に入っていくときにも、リアリズム作品の世界に入っていくのと同じ自然さを感じるようにするために必要なのです」(ボリス)。
「「創作上の原則」についてどうしても話さなければならないのでしたら、こういうことになります。リアリズム作家にとっての創作の原則は「よく知っていることを書け」ですが、この原則は幻想作家にとっても守るべきものです。ただ、その上にちょっと「……あるいは誰も知らないことを書け」と付け加えればいいのです」(アルカージイ)。
「ソビエトSFにおいて短編は、たとえばアメリカや日本にみられるような、支配的な役割を演じておりません……わたしたちは中編小説を書く方を好みます。なぜなら私たちの興味をひく問題点は短編にはおさまらないので」(ストルガツキー兄弟)。
 




●ソ連のSFと西側のSF
「一番大きな違いは、西側のSFではヒーローがいつも一人でゴールに向かって戦うのに、ソビエトSFでは、ヒーローはいつも良い社会の代表者であるということだ」(ストルガツキー兄弟)。
「ソ連を始め社会主義国のSFは、そもそもの出発点から、科学技術の啓蒙と思想的・政治的プロパガンダの道具であることを要求されてきた――ストルガツキー兄弟は、社会主義文学がイデオロギーに奉仕しなければならないという枠を踏み越え、SFが教育的・啓蒙的な読み物であるという枷をはずしたのだ」(深見弾)。
 なお、ストルガツキー兄弟が初めて西側の国を訪問したのは、1987年。イギリス・ブライトンでのSF大会に参加するためであった。この時アルカージイは、編集委員を務めている雑誌「ウラルの追跡者(ウラルスキイ・スレドビイト)」の特派員としての資格も持って出かけている。
 

 

 

 

 




●アルカージイの死
「SFの道を通って人類的な高みにいたったロシアの穏やかな賢者が宇宙の彼方に去ってしまった」(大江健三郎)
「アルカジイの訃報に接したときは、人生の一部を失ったような衝撃をうけた。われわれは惜しい才能を失った」(深見弾)
 

 

 

 

 

 

 




●参考資料
これらの文章は、以下の文献を参考にしてまとめたものである。
なお、年代は執筆年を記載し、執筆年が不明なものは本の出版年に依った。
▼「『竜座の暗黒星』(早川書房)はしがき〈日本の読者に〉」ストルガツキー兄弟/1965年
▼「ストゥルガーツキイ兄弟との対話――科学的予言の道――」/彦坂諦訳/ソヴェート文学22号/1969年
▼「世界SF展望・ソ連のSF雑誌」深見弾/SFマガジン1970年3月号
▼「詳報・ストルガツキー事件」深見弾/SFマガジン1970年8月号
▼「社会主義SFとストルガツキー兄弟」深見弾/北海道新聞1970年10月15日夕刊
▼「人間は常に人間でなくてはならない」アルカージイ・ストルガツキー(インタビュー)/西中村浩訳/ソヴェート文学86号/1983年
▼「『ストーカー』(早川書房)訳者あとがき」深見弾/1983年
▼「ボリス・ストルガツキー インタヴュー」ソ連紙「文学新聞」編集部/橋本俊雄訳/同人誌「イスカーチェリ」27号/1985年
▼「海外SF事情」波津博明/SFマガジン1985年10月号
▼「自伝」アルカージイ・ストルガツキー/深見弾訳/『世界終末十億年前』(群像社)所収/1986年
▼「ストルガツキー兄弟インタビュー」アルヴィド・エングホルム/同人誌「イスカーチェリ」29号/1987年
▼「『世界終末十億年前』(群像社)訳者あとがき――「自伝」の補足――」深見弾/1988年
▼「『みにくい白鳥』(群像社)訳者あとがき」中沢敦夫/1989年
▼「『トロイカ物語』(群像社)訳者あとがき」深見弾/1990年
▼「『そろそろ登れカタツムリ』(群像社)あとがきにかえて」深見弾/1991年
▼「A・ストルガツキーを悼む」大江健三郎/読売新聞1991年10月17日夕刊
※その他、SFマガジン誌の以下のコーナーに掲載された深見弾氏の文章を参照した。
▼「SFスキャナー」1975年10月号・77年1月号・78年1月号・79年10月号・80年3月号・81年6月号・81年10月号
▼「海外SF事情」1984年8月号・85年11月号・86年4月号・86年9月号・88年2月号・88年11月号
▼「ワールド・SF・レポート」1989年3月号・89年7月号・89年11月号

なお、文中、《〜》で囲まれた作品は、未訳であることを示します。

ストルガツキー兄弟の作品リストを見たい