トーキングヘッズ叢書No.7
『ブコウスキーと町でいちばんの酔いどれ天使』より
〈持たない者〉でいこう
「世の中には、〈持てる者〉と〈持てない者〉がいる」。
こんな単純な二分法は私の日頃の信念にそぐわないので、ちょっと言い方を変えてもう一度繰り返そう。
「世の中には、〈持てるものが比較的多い者〉と〈持てるものが比較的少ない者〉とがいる」。
だいぶマシになった。
さて、便宜上、この前者を〈持てる者〉、後者を〈持てない者〉と言い表わすことにしよう。では、〈持てる者〉が〈持つもの〉とはいったい何なのか。
答えのひとつは次のようなもの。
お金と、お金で買える、いわゆる〈物〉。
だけど、〈持つもの〉というふうに、〈もの〉という単語をわざわざ平仮名で書いたのは単に教養がないためではなく――ということにしておこう――もちろん、それなりの理由があってのことである。
お分りのことと思う。
それは権威、権力、社会的ステータス、プライド、エト・セトラ……百貨店や通信販売ではちょっと買うことのできそうもない、精神的な部分に影響する何かのもの。
結局、〈お金〉や〈物〉も、そうした精神的な何かを生み出すための小道具に過ぎない、と言うことができるんじゃないか。
人は、プライドを傷つけられたと言っては怒り、権力を得るためと考えては術数の限りを尽くし、果ては結集して戦争などという愚かな行為に及ぶこともある。
〈持てる者〉は強いとみんなは考えている。
〈持てる者〉は偉いとみんなは信じている。
だから、より〈持てる者〉になることを人々は目指そうとする。
だがそれが、本当に幸福につながるのだろうか。
〈持てる者〉になることが、幸福を掴む唯一の手段なのだろうか。
ひとつの疑問である。
〈持てる者〉は、裏返せば〈失うものがある者〉ということ。
〈持てる者〉には、〈失う〉という恐怖がつきまとう。
政治家は選挙に落ちることを恐れ、一流企業の部長も左遷に怯え、作家は突然失語症になってしまうのではないかと、アイドルは目が醒めたら世の中がそっぽを向いてしまっているのではないかと、戦戦兢兢としながら毎日を送っているのだ。
普通のサラリーマンだって、会社を馘にならないために、毎朝無理して早起きし嫌な満員電車に乗り込んでいる。会社では能無しだという判を押されたくないがために嫌々頑張って仕事をする。
意識していようといまいと、プレッシャーという縄に精神はがんじがらめになっているのだ。
そのプレッシャーは、もちろん〈持つもの〉が多いほど、高いほど、大きい。
それを失ったときの落差がより激しくなるからだ。
そういう点において比較すると、〈持てない者〉ほど、気楽で自由な人生が送れるのだと言える。〈持てない〉がゆえに不自由な側面もあろうが、逆に〈持てない〉がゆえの自由というのもあるのだ。
日本人はだれもが〈フーテンの寅さん〉を愛してきたではないか。
だれにも何にも束縛されない生活に一種の憧れを抱いてきたのだ(それはもちろん、日本人だけの話ではない)。
〈持てない者〉が不自由だと感じるのは、何かを〈持とう〉とするからだ。〈持てない者〉が〈持たない者〉になったとき、〈持とう〉という意思を捨て去ったとき、眼前の視界はパッと開けるはずだ。
だが、われわれのほとんどはそれができないでいる。
そうした勇気を持てないでいる。
〈持とうとする者〉という安易なレールに乗っかったままでいる。
そう。
ブコウスキーを好きになるということは、そういうことである。
そこにあるのは、〈持たない者〉の物語。ちょっとした、五十ドルくらいのプライドはあるかもしれないが、それ以上は何も望まない何も期待しない何も信じない、そんな生活。
肩の力を抜け。
酒があって、女がいる、それでいいじゃないか。
ブコウスキーは、〈持たない者〉の美学を描き出す。
気張って生きることが、どれほど価値があるのかと、問いかける。
われわれは、返す言葉もなく、ただひれ伏すしかない。
ブコウスキーよ、あんたは偉大だぜ。