トーキングヘッズ叢書No.8
『松浦理英子とPセンスな愛の美学』より
ちょっと長いまえがき



「男らしくしなさい」という言い方があります。
「女らしくしなさい」という言い方があります。
あなたは何回そう言われましたか。
あなたは何回そう言いましたか。

もちろん、それは「男」「女」だけのことではありません。
「子どもらしくしなさい」という言い方もあります。
「高校生らしくしなさい」でもいいでしょう。
「社会人らしくしなさい」、これもよく聞きます。
人は何を前提にそのような言い方をするのでしょうか。
どのようなイメージを、「男」「女」「子ども」「高校生」「社会人」という言葉に込めているのでしょうか。
それらには、きちんとした定義などないでしょう。
だれに教えられたということもないはずです。
しかし、にもかかわらず、それらに関して共通のイメージというものがが存在しているのです。
もう十年以上も前の作品ですが、さべあのまに『はにほへといろは』というマンガがあります。ごく普通の主婦の内面を繊細に描いたもので、一応〈夫の失業〉という〈事件〉は用意されていますが、あくまでも平々凡々とした主婦の平々凡々とした心の動きを追うことがこの作品の主軸になっています。

主人公の主婦(久里子)には小学校にあがったばかりの息子(健輔)がいます。前半は、この健輔を巡るエピソードが中心になりますが、それをちょっとピックアップしてみると――

ある日、久里子は健輔のために赤い色のシャツを買って帰ります。しかし健輔は「女みたいでいやだ」とだだをこねます。夫も、真剣にはその問題に関わろうとはしませんが、健輔の意見に同意します。久里子はしかたなくその服を交換しに行きます。

また、こんなシーンもあります。

健輔がある日、身体中を傷だらけにして学校から帰ってきます。久里子が事情を聞いても取り合おうとはせず、部屋に閉じこもり、翌朝も学校に行きたくないと言います。しかし、近所の主婦の噂話を立ち聞きして、それが女の子とのケンカに負けたためだとわかります。「女の子に負けた」ことがあれほど健輔を落ち込ませたのです。

これらのエピソードについて疑問に思うことは、いったい、だれが「赤=女の色」と決めたのか、ということ。いったい、だれが「男の方が女よりも強くあるべきだ」と決めたのか、ということです。そして、特に注目されたいのは、なぜ健輔がそのようなイメージを持つようになったのか、ということです。

おそらく健輔は、文字を覚えさせられるように、先生や親によってそれらを無理矢理叩き込まれたわけではないでしょう。普通の生活の中で、親の何気ない言葉とか、友達や近所の大人たちとの会話とか、テレビとかから得られるさまざまな断片を組合せることによって、自然にそのようなイメージを作り上げていったのではないでしょうか。

「男らしさ」「女らしさ」は、こうして人々の心に植え付けられていくのです。
そうしたイメージがまったく間違っていると、悪であると糾弾するつもりはありません。ですけど、それによって、ひとりの例外も許さずに、すべての人間をそのイメージの枠にはめこもうとする安易な態度は問題視されるべきです。

すべての女を、「女らしさ」に結びつけ、だれもかれもそれを身につけるべきだと説くのは、ある意味で余計なおせっかいです。理想像を掲げるのは構いませんが、すべての人間をその理想像のもとに集結できると考えるのは、愚かです。人間同士は、共通する部分もあれば、違った部分もあります。違いについて寛容になること、例外者をのけ者にしないこと、その考えを常に頭の片隅に常駐させておくべきです。
だから、「男らしく」とか、「女らしく」とか、軽々しく口にするのは、謹むべきではないでしょうか。「男というものは〜」とか「女というものは〜」という言い方も、感心できるものではないと思います。
実は、そうした押しつけは、マスメディアほど深刻なのではないかと思います。とりわけ文章として表現されたものよりも、直接的に脳にうったえかけてくるヴィジュアル面においてです。

例えば雑誌の編集で、女性向けなら書体や色合いを上品にするとか、少女向けならかわいい感じにするとか、お年寄り向けならどうだとか、そうしたことがごく常識的に行なわれています。それは、そうした嗜好を持つ者がターゲットとする層の多数を占めていると考えられているからで、そうした部分に好まれるように作った方が、部数が伸びると思っているからです。

事情はテレビにおいても同様。視聴率アップというものもより多数派の嗜好を探っていく行為であり、そこからは少数派の嗜好は無視されがちです。多数派の意見が真理とされ、少数派は異常とみなされます。その傾向は、メディアがより大きなマスをターゲットにしようとするに従って、強まっていくのです。

「男らしさ」「女らしさ」の虚像を作り上げているのは大衆かもしれませんが、マスメディアはそのイメージを助長し、より強固なものに仕上げがちです。ポルノビデオにショートカットの女性はほとんど見られず、その比率は明らかに現実の女性のものを反映していない、という事実と同じレベルで、マスメディアは少数派の排除に手を貸しているのです。そのあたりをきちんと認識してマスメディアに接するべきでしょう。

長くなりましたが、本書は、そのように形作られ、世間一般に流布している「男らしさ」「女らしさ」に疑問を投げ掛け、新たな「男」「女」もしくは「男女関係」を模索しようとする作品を取り上げようとするものです。中心に据えるのは、松浦理英子です。

その松浦理英子の唱える感覚を、ここでは仮に「Pセンス」と名付けてみました。それがいったいどのようなものなのかということは、松浦理英子インタビューを始めとする中の記事をお読みください。なんとなくわかっていただけると思います。あなたもPセンスを身に付けましょう。